はぴねす2008年5月



不平等に勝つ力
牧師 藤波勝正
 何年も前になりますが、ラジオで聞いたあるエピソードを忘れることができません。ある小学校のクラスに卵が贈られましたが、クラスの人数よりも少ない数でした。クラスで話し合った結果、卵焼きにして全員に同じ大きさに分けることにしました。ところが、食べ始めてみると、食べたりない子供がいれば、卵焼きを食べたくない子供もいたというのです。そして、子供たちは平等とは何かと疑問を持ったということです。
 平等に対する考え方は人によって違います。子供が考える平等と大人の考える平等は違いますし、大人でも、立場や人生観によって変わってきますが、多くの人は、数の平等こそが真の平等であるかのように思っています。数だけで平等を考えるなら、この世界は不平等に満ちています。生まれた環境、それぞれの健康、体力、能力、性質のどれを取っても同じ人はいないのですから、そもそもすべてが違っているということが大前提でなければならないと思います。
 4月25日の産経新聞で曽野綾子氏が「不平等に耐え、魂の教育を」と題した文章を書いておられました。社会の不平等があるとともに個人的にも人によって資質、外側からの影響などのすべてが違うと指摘したのちに、「政治や社会が、平等と公平を目指すのは当然だが、現実は必ず不平等で不公平なのである」と言い、不平等な社会が現実に存在し、完全な平等と公平な社会の実現は困難だと書いていました。そして、私たちに大切なのは、「不平等や不公平に耐えて、自分だけに与えられた人生を生きられる」と知ることであり、そのための魂の教育が必要であると結論づけていました。
 自分に都合の悪いことが起きたとき、また、罪を犯したとき、不平等で不公正な社会の責任にするなら、自分の責任を小さくし、心を少し慰めることができるかもしれませんが、真の解決の道を見いだすことができなくなります。問題の社会が変わらなければその人は変えられないという結論が導かれてしまうからです。しかし、社会に問題があったとしても、その困難に立ち向かう個人の問題に焦点を当てるなら、その人にとって大切な解決の道を導き出すことができ、新しい歩みが始まるのです。
 私たちは不平等で不公正な社会に生きていますから、不公正で不平等と思われる苦しみにたびたび遭遇しますが、それをどう受け止めるかで人生が決まる場合がしばしばあります。聖書に「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」(詩篇119:71)とありますが、苦しみを通して私たちは神の恵みを知り、新しい人間に変えられていくのです。パウロという大聖徒は、「患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです」(ローマ5:3、4)と患難を受ける者の恵みを語っています。主イエスがすべてを理解して勝利を与えてくださると信じるなら、私たちはその苦難を通して成長し、新しく生きる力をいただくことができるのです。


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