はぴねす2008年8月



死を真剣に考える者の幸い
牧師 藤波勝正

先日、ある医師の葬儀を司式させていただきました。その方は、4年前に自分が末期がんであると知り、余命は1年とご自分で判断されたようです。その時の衝撃は大きく、著書には「病初期には、絶望、死の恐怖に朝起きてから寝るまで、いや、夜中に目覚めた時ですら、恐れ慄き続けました」と書いておられます。「しかし、時が経つにつれて、悟ったのか、諦めたのか、あるいは感覚が麻痺したのか、『恐れと慄き』は消えて行」ったと続きます。

その後、学生時代からの友人であるキリスト者の医師から、「人生の店じまい」ではなく、「人生の完成」だというアドバイスを受けて、完成を目指して歩き出したのですが、心の中にはいつも死への恐怖がありました。

その医師の人生の土台の一つは、若い時に宣教師から学んだ聖書でした。宣教師に英会話を習いながら、新約聖書の「マタイの福音書」を読んだのですが、その時だけに終わることなく、聖書を読んで多くの感銘を受け、聖書が生涯の土台となりました。

人生の終わりを具体的に知らされた時、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)という聖書のみことばを信じることができるようになることを考えていましたが、実際には信じられないで悩んでいられたようでした。

前述のキリスト者の医師に教会を紹介してもらって通うようになり、イエス・キリストが自分の罪のために十字架にかかって死に、よみがえってくださったことを信じました。

イエスは、人類の罪のために身代わりの死を遂げましたが、3日目の日曜日によみがえりました。その後、幾度も弟子たちに会い、ある時には食事を共にし、そして天に帰られました。実は、イエスのよみがえりを一番信じられなかったのがイエスの弟子たちでした。信じられなかった弟子たちがよみがえったイエスに出会って信じたように、この医師も、自分の罪をゆるしてくださる主に出会い、よみがえりのイエスを信じることができました。

それ以来、喜び、感謝、生きがいに満ちた日々を過ごしながら教会生活を送っておられましたが、最後の日がいよいよ近くなって入院されました。私がお見舞いに行きますと、死を直前にしたこの医師は、「ここに来て私は平安です」と話し、私に葬儀の相談をされました。この平安は、死の恐怖に打ち勝ち、よみがえりの希望を持ち、人生を完成してくださった主に対する感謝が確かにあったから持つことのできる平安です。だれもが必ず経験しなければならない死というものに真剣に取り組み、聖書に救いの道を見いだし、信仰の勝利の道を現実に歩んだこの医師のことを思うとき、大きな励ましを受けます。

この世がすべてではありません。主を信じる者には新しい命が約束されています。死は勝利への第1歩であり、イエスを信じるなら、私たちも主がよみがえったようによみがえることができると信じる者の幸いを感じます。死とは何か、死の後に何があるのか、そして、今どのように生きなければならないのかを真剣に考えてみてはいかがでしょうか。



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