はぴねす2006年6月



父の遺産
牧師 藤波勝正
 6月の第3日曜日は父の日ですが、母の日ほどは大切にされていないのが現実ではないでしょうか。私たちの教会では、この日には必ず教会の青年会がプレゼントを用意してくれ、家族も父親である私に対して感謝の時を持ってくれますが、私自身は、非常に幼い時に父を亡くし、父と生活した記憶が少ないので、少し違った意味でこの日を迎えています。
 さて、母の日のいわれはよく語られますが、父の日のほうはあまり知られていないと思います。母の日が教会から始まったように、父の日もまた、商売のためにだれかが考え出した日ではなくて、教会から始まった行事なのです。
 1910年にアメリカ・ワシントン州のJ. B. ドット夫人が、彼女を男手一つで自分をそだててくれた父を覚えて、教会の牧師にお願いして父の誕生月6月に父の日礼拝をしてもらったことが切っ掛けと言われている。当時すでに母の日が始まっていたため、彼女は父の日もあるべきだと考え、「母の日のように父に感謝する日を」と牧師協会へ嘆願して始まった。(中略)
 1916年アメリカ合衆国第28代大統領ウッドロー・ウィルソンの時に『父の日』が認知されるようになる。1972年(昭和47年)になり、アメリカでは国民の祝日に制定される。 日本では1950年代ごろから知られるようになったが、母の日に比べると一般的な行事とは言えない。特に女性では、実際に父の日に何らかのプレゼントなり感謝の意を示すなどの行動をする者は非常に少ないと言われる。
 母の日の花がカーネーションなのに対し、父の日の花はバラ。ドット夫人が、父の日に父親の墓前に白いバラを供えたからとされている。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 このドット夫人を含む6人の兄弟は、過労で母親が主のもとに召された後は、父親一人に育てられました。その父親は、子供たちの成人後になくなっています。それだけに、父親への感謝が大きかったのだと思います。
 私は父の顔を知らず、母の手で育てられたので、母の日を大切にしたくなります。父親については、人から教えられた父親像しか持っていません。キリスト者であった父は、小さな事業を起こし、ある程度成功していたようですが、志半ばにして39歳で主のもとに召されました。その後、戦争のために父の残した事業は廃止させられ、少し残した財産も戦火によって多くは失われ、また、戦争のせいで価値を失った財産もありました。
 私は、記憶にない父のことを聞かされた一つ一つから自分なりに父親像を作り上げ、尊敬し、慕いつつ育ったことを思い起こします。母は父のことを自分の夫として信頼し、尊敬し、いつも話を聞かせてくれましたが、そのことに感謝しています。ほかにも、父を導いた牧師たち、同じ信仰を持った父の友人たち、特に信仰は持たないものの同じ仕事をしていた同業者たち、私の家で働いていた人々、また、親戚の者たちが語ってくれる父の思い出話にも励まされ、支えられてきました。
 そのような話から私が学んだのは、父が神を第一にした生活をしており、その信仰のゆえに家族を愛し、教会を愛し、多くの人々との交わりを大切にしたようだということです。
 私が父親から受け継ぎたいと願い続けたのは、この目に見えない遺産である父のイエス・キリストへの信仰であり、それに基づく生き方なのです。聖書に、「彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています」(ヘブル11:4)ということばがあります。目に見える財産の多くはいつかなくなっていきますが、目に見えない財産であるその人の生き方は、子供たちへの最高のメッセージとなるのです。私も父親として、子供たちに最高のメッセージを残すものでありたいと常に思い、祈っています。


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