はぴねす2006年11月



住はシェルター
牧師 藤波勝正
 最近、テレビ、新聞、ラジオなどで、毎日のようにいじめ、虐待、家庭内殺人が報じられ、たいへん悲しい思いをしています。このような問題の背景や直接の原因などは、専門家ではないのでわかりませんが、家庭とは何かを学び、そして語り、また家庭生活を営んでいる者として、考えさせられることがあります。
 ある家政学の専門家が、家庭科の授業で「衣食住」と学んだが、アメリカに留学して本を読むと、「衣食住」に当たる英語は"food, clothing, and shelter"で、住がシェルターとなっていたのに驚いたと言っていました。このシェルターということばを英和辞典で調べてみたところ、「避難所、隠れ家、保護」という意味がありました。つまり、生活に必要なのが着る物であり、食べ物であり、そしてもう一つがシェルターだということです。シェルターは、広い意味で住まいといってよいのでしょうが、本来の意味は、家族がさまざまな試練から逃れる場であり、保護される場という意味だと言っておられました。
 大人も子供も、家を出ると多くの戦いがあり、つらい思いをするのですが、家はそのような試練から逃れる場であり、保護される場であり、再び戦いに挑む力を得る場なのです。しかし、シェルターであるべき住まい、つまり隠れ家、避難所、保護の場自体が戦いの場となっていることがあると聞き、心が痛みます。
 人間は弱い者ですから、安住の場、避難所、隠れ家がなければ生きていくことができません。現代の私たちは、着ることと食べることはある程度満たされているのですから、もう一つ大切なシェルターである家庭を確保することに心を用いるべきなのです。
 励まし合い、支え合い、慰め合う場としての家庭の機能が少なくなっているように思えます。隠れ家、避難所、安住の場である家庭は、本来、共に暮らす中に会話があり、共に休む中で平安が与えられ、明日への活力が得られる場でなければならなかったはずです。
 私たちが試練に勝ち、希望を持ち続けるために必要なのは、自分が孤立してはおらず、自分を愛し、支え、苦労を共にしてくれる家族が身近にいるという意識です。ある心理学者は、「私は愛されているという確信、自分にも生きる目的があるという使命感、そして、その使命を果たす力が自分にあるという自信が最も大切である」と言っています。その基本になるのは、小さく、足りない、弱い者であっても家族に守られているという確信です。そこから、自分の価値を見いだし、生きる力を得ることができるのです。
 聖書に、「あなたはわたしのもの。……わたしがあなたとともにいる」(イザヤ43:1、5)とあります。問題を起こし、さまざまな弱さの中におり、自らの罪のゆえにさばきを受けなければならない民に対して、神はこの愛のことばを語られました。才能のある民だから、よい民だから愛する、愛してくれるから愛するというのではなく、神に反逆し、罪を犯し、どうにもならなくなった民にも、愛のメッセージを語っておられるのです。
 この愛が語られ、この愛に満ちている場所が、真のシェルターです。小さく、弱く、足りない者も受け入れられる逃れ場、失敗した者の隠れ家、挫折した者の安住の地、そのほか多くの問題を抱えている者の隠れ家、逃れ場、安住の地が家庭なのです。責め合う場ではなく、愛され、受け入れられ、励ます場としての家庭が生み出され、育てられ、拡大していくことを祈っています。失敗し、挫折し、生きる希望を失った者に、「あなたはわたしのもの。……わたしがあなたとともにいる」と語る家庭でありたいと思います。


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