はぴねす2007年2月



悪口の取り扱い
牧師 藤波勝正
 最近の青少年犯罪について考えさせられていることを一つ記したいと思います。よく言われることですが、子供たちが親や教師に相談することができず、友達同士で解決の道を求めたり、だれにも相談できずに自分の中に閉じこめて、いよいよ暗黒の中に陥ったりする傾向があります。
 なぜ最近の青少年は親、教師、そのほかの人生の経験者に悩みを訴えることができないのでしょうか。子供たちが相談してくるのを多くの親たち、教師たちなどが待っていることを知っていながら、決して心を開こうとしない原因はどこにあるのでしょうか。それぞれ違う原因があると思うので、断定することはしませんが、一つのことを考えさせられています。
 報道などを見て思うのは、相談することが親や教師に悪口を言うことのように思っているのではないかということです。人から受けた苦しみや悩みを親や教師に訴えたにもかかわらず、受け取る側が悪口を単位悪口を言っていると勘違いし、解決策を探ろうとしないならば、いよいよ問題は深刻になっていくのではないかと思います。人間の動機は一つではなく、たとえ悪口のように思えても、その中に悩みを訴える心もあると受け止めて、共に考える態度が必要だと思います。
 聖書に「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」(ローマ12:15)ということばがありますが、共に悩み、共に苦しみ、共に喜ぶところから始めることが大切だと思います。相手の重荷、つまり苦しみや悩みを自分の問題として受け止め、分かち合うことが、聖書の教える交わりです。相談を受けることは、悪口を聞くのとは違います。相談してきた人の心をそのまま受け止めることであり、その苦しみを自分の苦しみとして受け止め、共に悩むことなのです。
 私たちキリスト者であれば、すべてを理解し、解決の道を持っておられる主イエスに訴え、また、共に祈り合うことから始めます。「私たちの大祭司(イエス)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(ヘブル4:15、16)と聖書にあります。「恵みの御座」とはイエスのもとです。イエスに祈るときに助けをくださるという約束なのです。
 人生には試練がつきものですが、弱い私たちがその試練を一人で乗り越えていくのではなく、共に苦しみ、共に悩み、すべてを理解してくださる方と一緒に乗り越えていくことが大切です。この共にいる方とは、親であり、先生であり、その他の人生の先輩であり、私たちキリスト者にとってはイエス・キリストご自身です。イエスは私たちの苦しみを本当に理解し、私たちと一緒に苦しみを担い、本当の解決の道を備えていてくださいます。大胆に主イエスのもとに行こうではありませんか。


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