|
|
|
自分で車を運転するようになって四十数年になります。運転をしているとき、思いもかけない得をしたように思うことも、逆に大きな不利益を味わってしまったように思うときもあります。そんな中で、道路交通には三つの公平が図られていること、同時に、そのそれぞれが不公平感をも与えていることに気づきました。
第一の公平は信号です。たまたま青信号の連続する中を通ったときの爽快感は格別ですが、渋滞に巻き込まれ、赤信号につかまってばかりのときの不公平感も大きなものがあります。しかし、信号は法律が定めたルールに従っていますから、利益と不利益を受けるチャンスがだれにもあります。これはチャンスの公平だと考えます。
第二の公平は首都高速道路です。東名から首都高速に乗ってすぐに降りても、一時間近く走って常磐道に入るまで利用しても、特別な方法をとる以外同じ700円です。ですから、すぐに降りたときには不公平感、長距離利用したときには得をしたような感覚を味わいます。これは目に見えるの公平であると考えます。
第三の公平は東名などの高速道路です。利用距離によって料金が違いますが、利用する時間によっても料金が違い、納得できないこともあります。しかし、距離によって料金が決まるので、ほかの方法よりも納得しやすい面があります。これは実質的公平であると考えます。
このように、ひと口に公平といっても、チャンスの公平もあれば、目に見える公平や実質的な公平もあります。けれども、自分の受けた損害から不公平感を持ち、相手を批判したくなるのが私たちの身勝手な心理です。
聖書はイエスに12人の弟子がいたことを記していますが、その中に二組の兄弟がいました。一組はアンデレとペテロ、もう一組はヨハネとヤコブです。この中で最も早くイエスが神の子であると信じ、兄ペテロをイエスに紹介したのがアンデレです。しかし、イエスは大切なところへはいつもペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れていくのですが、アンデレは留守番役でした。彼がどのような気持ちで残っていたのかはわかりませんが、私ならば不平と不満とつぶやきに満たされ、指導者のイエスに不信感を持つでしょう。
しかし、アンデレはイエスの真実に信頼し、日々なすべき分を感謝のうちに行ない、生涯イエスに従ったのです。イエスのなさることを彼がすべて理解したとは思いませんが、イエスが愛と真実の方、きよい方、救い主であるとただ信じたゆえに、イエスが自分になさることを受け入れることができ、イエスに従い続け、兄弟を愛し続けることができたのです。
聖書に「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」(ヨハネ13:7)ということばがありますが、理解できないこと、不公平に思うこと、嫌なことでも、後になって考えると、そこに大きな意味があることに気づきます。身勝手な不公平感から相手を批判するのではなく、信頼する心を持ち、お互いの交わりを大切にしたいものです。
|
|
|
|
|