はぴねす2007年7月



失敗から学ぶこと
牧師 藤波勝正
 親が子供をしかるとき、「何回言ったらわかるの」と言う場合があります。正しい知識によって正しい行動が生み出されると思っているのでしょう。しかし、自分自身を省みると、わかっていても行なえないものが自分の中にもあるのに気づき、子供をしかりつつ自分の弱さに思いをいたす場合があります。
 だれでも多くの失敗をしますが、失敗したときこそ、自分のうちにある弱さを知る大切なときです。正しいことだから行ないたいと思いつつも、現実にはなかなか実行することのできない弱さが私たちにはあります。聖書はそれを人間のうちにある罪の性質と言っています。
 聖書にダビデ王の失敗が記されています。ダビデ王は、その紋章が現在のイスラエルの国旗に用いられているほど、イスラエルの人々に尊敬されている人物ですが、王としての地位が安定したときに女性問題で失敗し、さらには自分の失敗を隠すために大切な家臣を殺すという大きな罪を犯しました。何が正しいかを十分に知っており、人々にも説いていた彼が失敗したのは、彼の知識が足りなかったのではなく、彼自身の心が弱かったからです。そのため、ダビデは正しいことを行なう力が自分に欠けていること、自分が罪深いことを自覚し、そのまま神の前に出ました。
 罪を犯し、失敗したダビデが、その罪の大きさを悟った後に作った詩が残されています。その中に「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」(詩篇51:10)という一節があります。彼は神によって罪をゆるされ、新しく生きる力を与えられました。そして、主にある王としての新しい歩みを与えられて生涯を全うしました。この詩は、罪を犯して失敗した人々の心を歌った詩として有名で、多くの人々の心に愛されています。
 ダビデは大きな失敗をしましたが、この失敗は神から与えられた大切な経験となり、その経験を通して私たちにも神の恵み深さを教えています。神は一つ一つの失敗を通じて、私たちの弱さ、足りなさ、罪深さを教えておられます。私自身も、失敗したときにこそ、生きる力を真剣に主に祈り求めました。そして主はいつも祈りにこたえて罪をゆるし、新しく生きる力を与えてくださいました。主に、そして多くの人々にゆるされ、支えられて今日まで来ることができたのです。
 聖書は、私たちの弱さを克服するために神の力を祈り求めるよう教えています。「しつけとは訓練である」という意味のことばを聞いたことがありますが、このことばは、だれでも多くの失敗をする中で自分が何をすべきかがわかっていてもできないことを知って神に祈り求めていくうちに、いつの間にかそのなすべきことが身についてくるという意味だと私は思っています。失敗したときとは、わかっていてもできない自分の弱さを知って、その弱さを克服する力を与えることのできる神、失敗を益に変える神に祈り求めるときです。だれかが失敗したとき、その人を責めるのではなく、その人の弱さに同情し、共に神に祈る者とさせていただきたいと思っています。


■小田原教会通信はぴねす目次■

■小田原教会TOP■