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多くの人々が願っていることをことばにすれば、「家内安全、商売繁盛、無病息災」ではないかと思います。このうちの一つでも二つでも実現していれば幸福感があり、生きる希望も持てますが、実際には、そのような幸福感を与えているものが失われてしまう場合もしばしばあります。
自分やほかの人の失敗のため、あるいは、急激に変化する時代の要求にこたえることができなくなったため、あるいは、思いがけないさまざまな災害により直接間接の影響を受けたため、そのほかさまざまな理由で、持っていた幸福感のすべてや一部が失われ、悲嘆にくれる場合があります。そのようなことを試練と呼びますが、そのような試練に遭ったときにどのような態度をとるかによって人生が変わってしまうということをよく聞きます。順調に行っているときの判断も大切ですが、逆境にいるときの判断が人生に決定的な影響を与えるものであると考えさせられています。
私の両親は熱心なキリスト者で、昭和の初めにある程度の商売を東京の問屋街でしていました。昭和10年代、父は若くして病死し、その後間もなく、政府の命令で商売をすることができなくなりました。母は、幼い3人の子供、義父、何人かの従業員を抱えて悲嘆にくれたと言っていました。このような苦しみをどう理解したらいいのか、どうやって生活したらいいのか、生活自体がどうなってしまうのかが心配だったのだと思います。
夫の急逝という事態に遭遇して悩み、苦しみ、嘆いていた母は、神の前に祈りのときを持ったようです。ことばにならない祈りかもしれませんし、うめき声だったかもしれません。そのとき神は、父の葬儀を司式した牧師が語ったみことばを母に思い出させてくださいました。「いまは知らず、後に悟るべし」(ヨハネ13:7〔文語訳〕)と「[神は]善にして善をおこなひ給ふ」(詩篇119:68〔文語訳〕)というみことばです。母はこのとき、理解できないことが多々あったとしても、必ずわかるときが来るのだからそのときを待とうと決心し、今起きている現実をそのまま受け入れよう、すべてを最善に導く神を信頼して歩もうと決意したのです。その後もさまざまなことがありましたが、母が神への信頼によって私たちを育ててくれたことを今も感謝しています。
母の生き方は、私に対する生涯最高のメッセージです。「家内安全、商売繁盛、無病息災」を求める生活では得られらない本当のものを残してくれました。どんな試練の中でも、主イエスを信じて歩むなら、主はすべてを最善にしてくださいます。また、その試練を通して私たちを作り変えてくださいます。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇119:71)いう聖書のことばのように、試練を通して神の恵みを知り、神とともに歩む者の幸いを知ることができます。試練はないほうがいいに決まっていますが、試練を通して自分が変えられるというの望みをいつも持っていたいと思います。
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