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幼稚園で子供たちを見ていると、争いには二つの種類があることに気づきます。一つは、互いの利益のぶつかり合いから始まる衝突です。そして、ついにはどちらかが手を出して泣き喚くことになります。大声で泣く子供ばかりではなく、静かに我慢して相手をにらみつける子供、平気な顔をしている子供といろいろです。
3人兄弟の末っ子に聞いた話では、自分が何か間違ったことをして上の兄弟に迷惑をかけ、その結果泣かされたとしても、上の子供に責任転嫁するためになるべく大きな声で泣くのだそうです。すると母親は、泣かせた上の子が悪いと言ってしかるので、それを見て安心するといいます。このような争いは意志のぶつかり合いであり、このことを通して子供たちはさまざまなことを学び、成長していきます。
子供たちの間に見られるもう一つの争いがあります。何かした子供が謝ったとき、その子供は謝れば必ずゆるしてもらえると期待して謝るのですが、迷惑をかけられた子供はなかなかゆるすことができないため、ゆるすゆるさないという二次的な争いが始まります。かけられた迷惑が大きければ大きいほど、ゆるすのは困難です。子供だけではありません。私たちもゆるすことの難しさをいつも経験しています。
何年も前のことですが、香港で一人のキリスト者の青年と話したことがあります。彼は、頭では日本人を愛さなければならないとわかっているが、自分の家族が日本軍から受けた損害を考えると、日本人への恨みの心があるからゆるすことができないと言っていました。まず自分の心から恨みの心、憎しみの心、敵意が取り除かれる必要があると言うのです。そのとき、私たちは二人で一緒に聖書を読みました。彼は広東語の聖書、私は日本語の聖書で「両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました」(エペソ2:16)という箇所を読み、彼は広東語で、私は日本語で祈りました。そのときに私たちの間の恨みと憎しみの心が取り除かれたことは、忘れることのできない思い出です。
ゆるす心を持つのは、自分ではどうすることもできないほど難しいことであり、たとえゆるす心を持てたとしても、その心を相手に伝えることもたいへんです。かけられた迷惑が大きければ大きいほど、ゆるす心が必要です。十字架上で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)とご自分を十字架につけた人をゆるす祈りをなさったイエスは、祈る者の心にそのゆるしの心を今も与えてくださいます。私たちの日常生活にこのゆるしの心があるなら、私たちの人間関係は喜びと感謝と助け合いの関係になることでしょう。これは、イエスの十字架の恵みを知ったときに与えられる神の恵みなのです。
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