先日来、大相撲の大麻騒動が多くの人々の関心を呼んでいます。古い伝統の中にあると思われていた相撲社会で、あってはならないことが起きたという現実に多くの人々が驚いたことでしょう。
最も衝撃的だったのは、自分の部屋で起きた現実を受け入れることのできなかった師匠たちの姿ではなかったでしょうか。一人の師匠は、弟子が大きな過ちを犯したという事実が科学的な調査ではっきりしたにもかかわらず、「親である以上、子供のことばを信頼しなければならないと思っている」と言っていましたが、必死になって自分の弟子を子供のように愛し、信頼している姿に接し、ことばを失いました。子供がたとえ間違ったことをしたとしても信頼しなければならないと自分に言い聞かせていたのではないでしょうか。
おそらく、この師匠は、自分の弟子が間違いを犯していると予想しつつも、必死に不安を打ち消して信頼のことばを言っていたのでしょう。その結果、過ちを犯した弟子は、師匠の立場と自分の立場を守るために偽りに偽りを重ね、騒動を大きくしていったのです。
私たちの親子関係においても、親に意識的に偽りを言った子供が、「なぜ私のことばを信用しないのか」と自分のことばを絶対的に信用するよう強要することがあります。親の中にも、たとえ子供が偽りを言っているかもしれないという疑いを持ったとしても、子供のことばなら徹底的に信頼しなければならないと思っている人もいます。
もし私がその師匠の立場なら、「今まであなたのことばを信用してきたけれど、科学的な調査であなたに偽りがあったことがわかりました。たとえあなたが失敗したとしても愛情は変わりません。この失敗があなたにとって益となるように一緒に考えましょう。また私は神に祈ります」と言って、まず現実を認めます。そして、「あなたが本当のことを言ってくれると信頼して待ちます」と話すでしょう。
相手が間違ったことをしないと信頼し、期待し、希望しても、そのような信頼や期待や希望はすぐに失われてしまいます。本当の信頼とは、相手がたとえ間違ったことをしても必ず本当のことを言って立ち直ってくれると期待し、信頼し、すべてが益に変えられるという希望を持つことです。
聖書に「すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」(Tコリント13:7)とあります。本当の信頼は、予想や期待の上に成り立つのではなく、事実の上に立たなければならないのです。「神の慈愛があなたを悔い改めに導く」(ローマ2:4)とあるように、神は私たちが正しく歩む者となることを今も待っておられます。聖書にある放蕩息子のたとえでは、自分の息子が罪を犯したのではないかと思っている父親が出てきます。この父親は、息子が「私は間違ったことをしました」と言って自分のところに帰ってくるのを待っていました。
神は私たちが自分の罪を認めて神のところに帰ると、信頼して待っていてくださるのです。
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