はぴねす2009年8月



だれもが喜ぶことば
牧師 藤波勝正

あるテレビ番組によれば、人が喜ぶことばの第1位は名前を呼ばれること、第2位は「ありがとう」と言われることだそうです。

私の妻は、こひつじ学園の副園長をしていますが、人の名前と顔をよく覚えています。卒園して何年たっても園児の名前を覚えており、どこかで偶然会ったときに顔を見て名前を呼ぶと、すっかり成長した卒園生の顔に笑みが浮かぶのをよく見ます。卒園して何年も離れていても自分のことを覚えてもらっているのはうれしいことです。名前を呼ばれるというのは、自分の存在を相手が認めているということを意味しているのでしょう。名前を呼び合い、存在を認め合うことが大切であると感じます。

また、「ありがとう」ということばは、自分の行為が喜びをもって受け入れられたことを示します。私は、自分の母と家内の母を最期までみとってきました。二人とも自分も他人もわからなくなりましたが、いつも「ありがとう」と言っていました。「ありがとう」と言われると、世話をしてくださった方々に笑みが浮かびました。「ありがとう」ということばは、自分の行為が受け入れられ、無駄ではなかったことを示します。日々の生活で周りの人々に感謝することが大切だと感じています。

私たちには、自分の存在を認められたい、自分がだれかの役に立ちたいという願いがありますから、名前を呼ばれることで自分の存在が認められたときの喜びは大きく、「ありがとう」と言われて自分の行為が人の役に立ったと知った時には感謝があふれてきます。

私たちの日々の生活の中で、相手の存在を認め、相手の行為に感謝する者でありたいと思っています。特に家庭にあって、夫婦、親子、兄弟の間に「ありがとう」ということばが自然に出てくる状態でありたいと思います。

神は私たちの名を呼んで存在を認め、私たちのしていることを正しく評価してくださいます。ですから、その神に自分の存在を認められたときの喜びは大きいのです。同時に、その人が忘れてしまったようなごく日常的な小さな行為をも神は覚えており、正しい報いを与えてくださることが約束されています。

罪を犯し、多くの人々に後ろ指をさされ、自分で自分の存在価値を認められなくなった人――このような人を聖書は失われた人と言っています――にイエスが声をかけている箇所が聖書にあります。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」(ルカ19:10)。「人の子」とはイエスを指しています。イエスは、人々に認められていない人、いや後ろ指を指される人のことも認め、名を呼び、その人を迎え入れてくださいました。



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