はぴねす2009年10月



万引きとモンスターペアレント
牧師 藤波勝正

9月27日の産経新聞に「万引現場にもモンスターペアレント」という記事が掲載されていました。万引をした子供の保護者が「なぜ捕まえた」「通報されて子供がショックを受けた」とクレームをつけるケースが多くあると言います。保護者が子供を叱るのではなく、「万引に気付いたなら、捕まえる前に諭すべき」と言ったり、「商品を子供が取れるような場所に置いている店の方が悪い」と言ったりする場合もあるそうです。記事の最後は、「保護者を含めたすべての世代に『万引は犯罪』という認識を持ってもらうことで、ほかの犯罪抑止につなげたい」という警視庁幹部の話で終わっています。

この記事を読んで思ったのですが、クレームをつけてきた保護者が商店主だったら、犯罪被害の大きさを嘆くでしょうし、今の子供と親が万引に対してゲーム感覚でいる姿に驚いて「万引は犯罪である」と声高く叫ぶでしょう。また、第三者だったら、「親は子供に万引きが犯罪だと教える必要がある」と正論を語るに違いありません。

多くの子供たちは、万引しても見つからなければよい、見つかったら逃げればよい、つかまったら弁償すればよいと考えているようです。親も、子供を間違った愛情でかばい、何とかして犯罪者のレッテルをつけずにすむ方法はないかと考えているにすぎないのではないかと思います。周囲の人々の責任を追及することで、我が子の刑事責任を少しでも小さくしたいのでしょう。

しかし、保護者は、どんな小さな罪にも罰があること、その罪によって人生が根本的に変わってしまう恐ろしさがあることを、子供が小さいときから教える必要があります。

聖書にサウルとダビデという二人の王が罪を犯した時にどのような態度を取ったかが記されています。サウル王は、自分が罪を犯したことは認めましたが、責任転嫁したばかりか、最後まで自分の面子を守ろうとしました。一方、ダビデ王は大きな罪を犯したのですが、「あなたは罪を犯しました」と人に指摘されると、正直に罪を認め、自分の面子も何もかも捨てて神と人の前にへりくだりました。サウル王は犯した罪のためについに王位から追放されましたが、ダビデ王は罪をゆるされ、今も多くの人に尊敬されています。

罪を罪として認めないでいると、幼いときの鋭敏な良心がまひし、罪の重さがわからなくなり、小さいと思われる罪から自分を破滅に追いやる罪へといよいよ深みにはまっていきます。

神は、私たちが自分の犯した罪を罪として認め、悔い改め、新しい歩みをするためにイエスの十字架があることを教えています。先ほどのダビデ王は、「私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました」(詩篇32:5)と言って、罪と正直に向き合っています。聖書が教える真実の愛とは、罪を罪として認め、救いの道を教え、新しい歩みへ変えられていくお手伝いをすることです。



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