はぴねす2010年2月



愛し合う生き方
牧師 藤波勝正

日本の教育で基本と考えられていることの一つは、自立した人間を育てることのようです。ですから、比較的弱いと考えられている人には、自立した生き方をすることができるように自立支援のための取り組みがさまざまに行なわれています。昔では考えられないさまざまな取り組みがなされていることはたいへん感謝なことだと思っています。

教育の目標の一つが自立ですから、子供の成長のバロメーターとしても、朝一人で起きられるか、自分の身の回りや部屋の片づけをするか、そのほかの日常生活の基本的なことを自分でするかというような調査をするそうです。

成人に達すると、自分の行為には自分で責任をもつようにと言われます。自立とは、ほかの人に迷惑をかけない生き方であり、迷惑をかけたときには自分の行為に対して自分で責任をとるという責任ある生き方を指しているように思います。

けれども、そのようなことが自立であるなら、どんなに支援を受けても自分だけで生きていくことができない弱さをもっているのが私たちです。人に迷惑をかけないというのはある面では正しいことのように思えますが、私たちは他人に迷惑をかけない生き方はできませんし、迷惑をかけた行為に対して完全に責任をとることなど到底できないのです。

最近の青年たちは、「責任をとれば何をやってもよい」「だれにも迷惑はかけていない」「自分ですることなのだから、だれも反対することはできない」と言って、自立とはまったく違う生き方をしていますが、これは孤立であり、自己中心であり、自分かってな生き方と言わざるをえません。

私たちにとって大切なのは、家族やそのほかの人々のために生きること、社会に役立つ者となること、また、キリスト者であるなら、神様のために生きることです。弱く、足りない、罪深い私たちですから、互いにゆるし合い、支え合い、励まし合う生き方こそが大切だと思います。

ある調査によれば、友人のために犠牲になるという高校生は日本では極端に少なく、アメリカでは何倍も多いということです。何でも一人ですることが自立ではありません。自分のことは自分でするということと自立とは別の問題です。自分のしたことには自分で責任をとれという生き方は真の自立ではないと思います。

聖書に「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです」(Tコリント12:25、26)とあり、互いに連携した中で生きることが大切であると教えています。私たちが生きがいを感じるのは、だれかのために役立っている自分を見いだした時です。寝たきりで何もできなくなった方が自分のために労してくれた人に「ありがとう」と言ったその一言が、人を励まし、生きがいを与えました。迷惑をかけない生き方を求めることも大切ですが、さらにまさって、だれかのために役に立つ生き方を求め、人のために生きるすばらしさ、助けられる喜び、愛し合う関係のすばらしさを経験したいと思います。



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