先日までカナダのバンクーバーで冬季オリンピックが開催されていましたが、多くの方がたの関心を集めました。特に日本人選手の活躍を見ようとテレビから離れることができなかった人もいたことでしょう。日本人選手勝利のニュースを聞いて、何とも言えない喜びを共に味わった人も多くいたと思います。
現代のオリンピックでは、金、銀、銅のメダルが贈られます。メダルをとった選手たちは長い間の練習に耐え、多くの人々の期待を一身に負い、経済的にも苦しんだことでしょう。その苦しみが報いられた喜びにあふれる姿に、私たちも喜びを共にすることができました。
一方で、メダルを取ることができずに終わった選手のインタビューを見て、同じように悲しい思いを感じたことでしょう。彼らは長い間の練習に耐えたにもかかわらず、報われず、敗北の悔しさを味わいました。心ない非難のことばを甘んじて受けなければならないこともあります。
今も昔も同じですが、勝利者としてほめたたえられるのはほんの一握りの人々です。その人々は、目標を持って努力してきたから栄冠を得ることができたと誇らしげにメダルを見せますが、大部分の人は目標を達成できずに挫折を経験しているのです。次のチャンスを期待して練習を再開する人もいるでしょうし、その希望を持つことができずに引退を決意し、次の世代に希望をつなぐ人もいます。
人生の目標を達成できた人は「夢を持つべきであり、夢は必ず実現する」と言いますが、現実は夢が実現しなかった人のほうが多いのではないでしょうか。
しかし、正しい目標のために苦しんだことは決して無駄にはならないといつも思います。目標達成のために努力する過程で多くのことを学び、人間が作られていくと聖書は教えています。「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3〜5)最終的な目標は、自分たちの世代か、次の世代か、だれによってかはわかりませんが、必ず実現すると信じることができます。そのような中で、神が愛であることを私たちは知ることができるのです。
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