小学校5年の時、わたしは生まれ育った教会で洗礼を受けました。教会はとても楽しいところで、いろんな手伝いをする中に自然と将来は教会で働きたい、神さまのために働く人になりたいと思っていました。
美術や音楽が好きで大学は建築科に行きたいと思っていましたが、思っているだけで受験勉強にはまったく身が入らず、とうとう2浪しても行くところが決まりませんでした。牧師である父が、それなら留学はどうか、行くに当たっては聖書学科に入りなさいと、道を付けてくれたのです。
大学も5年目、卒業のために課題を抱えていた時期でした。ある人と自分の関係の中に、「神さまは喜ばない」だろうと知りつつ、自分が満足するため、神さまの喜ばない方を選択するという自分の姿をはっきり見たのです。聖書の言う罪が自分の中にあることを、これまでないほど自覚しました。神さまに喜ばれるようにと生きてきた(と思っていた)のと、正反対の自分の内面を知ったのです。一方、自覚はしても、自分を変えることができないわたしは落ち込んでいきました。
朝起きることができず、授業を休んだりすることが多くなりました。頭が重く、課題のために机に向かっても何も進まず、半分ノイローゼのようでした。もう卒業などどうでもいい日本に帰ろうと思いました。
かろうじて卒業し、日本に戻った時、とても喜んでくれたのは教会の人たちでした。わたしの心の悩みなどつゆ知らず、目に涙を浮かべながら喜んでくれる人の中に、わたしは癒されていったのだと思います。
ある日、神さまに祈り、自分の罪を告白しました。すると心が本当に軽くなり、明るい気持になりました。うれしくて眠れず、聖書を開いて新約聖書のはじめからずっと読んでいったのです。そしてマタイによる福音書の19章まで読んだ時、金持ちの青年の話の中で、イエス様が弟子たちに語られた言葉がわたしの救いとなりました。
「それは人間にできることではないが、神は何でもできる。」(26節)
どんなに人の罪が深くても、自分で自分を変えることができなくても、神さまには変える力があるということ、また、罪深いわたしを神さまは愛していてくださったこと、この言葉から受けた確信は今も変わりません。
(独立新生葛飾教会牧師)
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