「理屈は貨車に乗ってやってくる」というのは、私が大学で学生運動をしているときに新聞に掲載された有名な政治家のことばです。この政治家が言いたかったのは、自分の都合であっても結論を出しさえすればいくらでも理屈がつくから、まず結論を出せということでした。この方にとっては、正しい理屈よりも、自分や支援者たちに利益をもたらす結論のほうが大事だったのです。
しかし、そのような古い時代の政治家を非難する気持ちにはなれません。考えてみますと、私たちが何かの結論を出すときには三つの視点があると思います。一つ目は、自分に何らかの利益をもたらすかどうかです。二つ目は、自分の地位が守られ、将来に良い結果をもたらすかどうかです。三つ目は、自分の名誉が守られ、少なくとも名誉に傷がつかないかどうかです。どんなに正しい理屈であっても、不利益をもたらす結論には賛成したくない気持ちが私たちの中には多くあります。反対に、たとえ間違った理屈であっても、利益をもたらすものには賛同したくなる弱さがあります。
同じ人であっても、立場が変わると言うことや結論が変わることがありますが、立場が変わることによって利害得失が変わるからです。そのような人たちにとって、その人の中にある何かの思想ではなく、利害得失でいつも物事を判断しているように思えてなりません。ある場合には、思想そのものが環境の変化による利害得失の変化で変わっていく場合さえあります。自分の利害に関係がない場合には正しい理由に立って結論を出すことができますが、自分の立場や利害得失に直結すればするほど、正しい理屈の上に立った結論が難しくなっていきます。私自身にもこの弱さがあります。
しかし、私たちの考え方は、利害得失によることなく変化していかなければなりません。聖書に「私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました」(Tコリント13:11)とありますが、成長し、さまざまなことを経験する中で考え方が変わり、結論が変わっていきます。正しい方向に変化するなら喜ばしいことです。
また、イエスに出会い、新しい人間になったときにも考え方が変わります。聖書の中でパウロという人物は、「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」(ピリピ3:8)と書き、イエスを知った喜びのために価値観が根本的に変わったことを告白しています。
私たちの考えが利害得失でなく、永遠に変わらない真理に基づくものであれば、平安な人生を送ることができます。たとえ目に見えるところが損であっても、多くの人々に生きる道を教える大切なメッセージとなるのです。永遠に変わらない真理に基づく価値観を持って歩む人生でありたいといつも思っています。
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