30年以上前からたびたび台湾を訪問しており、20回以上行ったように思います。行くたびに訪問するのは、戦前は高砂族と呼ばれ、戦後は山地人、山朋、原住民と言われる少数民族です。彼らは十二、三の部族からなりますが、それぞれの部族で言語も習慣もまったくと言っていいほど異なっています。日本が統治しているときに日本語教育が行なわれ、日本語が共通語となりました。
敗戦後、台湾が国民党に統治されるようになると、北京語による教育が行なわれ、北京語が共通語になりました。若い人たちはそのような変化に対して割合に順応することができるのですが、ある程度年を取っていたり、ことばに才能がなかったりすると、たいへん苦労したと聞きます。
原住民でなくても、ある日突然、学校では北京語以外使用禁止になり、意思疎通ができないために多くの混乱を経験したそうです。都市部にある女子高でこの変化を経験した女性は、ある日突然ことばが変わったことで、日本語でいつも会話し、親しくしていた友達とうまくつき合うことができなくなり、誤解が生まれ、悲しい思いをしたと言っています。新しい環境になかなか慣れることができず、幾度も泣いたそうです。
互いの交わりのためにことばが必要不可欠であることは言を待ちません。ことばによって愛を知り、理解し合い、互いに成長していくのですから、ことばの通じ合わないつらさがわかります。
1200年代のことですが、複雑な言語の中で生まれ育ち、苦労した神聖ローマ帝国のある皇帝がいました。彼は人間が最初に使う言語が知りたくて、生まれたばかりの赤ん坊を集めて理想的な環境に置き、一切話しかけることなく育てるという実験をしました。スキンシップも許されなかったという人もいます。その結果、赤ん坊はすべて死んでしまいました。
母親が赤ん坊に母乳を与えながら語りかけることによって赤ん坊は母親の愛を知り、信頼感が育ち、人として生きていく基礎ができると言われます。同時に、そうすることで母親には親としての自覚が育ち、赤ん坊への愛がまし、保護者としての意識が育つとも言われます。
会話がないということは交わりがないことであり、互いに対する信頼感を育てる場がないことになります。私たちの日常生活が、一見どんなに整えられていても、愛のことばによる交わりがなければ、たいへんつらい場所となります。最近、多くの家庭では食事を共にすることが少なくなり、夫婦の会話、親子の会話、家族の会話もたいへん少なくなっていると言われます。愛のことばによる交わりがあれば、真の信頼感が生まれ、心も体も順調に育っていきます。
聖書に「愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです」(エペソ4:15)ということばがありますが、私たちが愛をもって真理を語り合うところに真の成長があります。イエスはことばをもって私たちを愛し、そのことばどおりに歩んで神の愛をお示しになりました。今も、聖書のことばを通して、また祈りの中で私たちに愛のことばをかけてくださいます。そのことばで私たちは愛を知り、交わりを保ち、お互いが成長するのです。
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