3月11日の東日本大震災の規模と被害の大きさにことばを失います。そのうえ、原子力発電所の事故の想像を超えた大きさ被害が加わり、しかもその被害が長期に渡ることを思うと、なぜどうしてこのようなことが起こったのかと思わずにはいられません。私の知人にも、家族を亡くしたり、住み慣れた家を流されたりした方がたがおられます。ある教会は、教会堂は地震に耐えましたが、原発の事故でそこにいることができなくなりました。私が関係している石巻教会も津波の被害を受けましたが、キリスト教会の関係者の協力をいただき、活動ができるように補修されました。今は、多くの人々の物的人的な協力を受けつつ、被災者のために物心両面でよい働きをしており、産経新聞にも掲載されました。
何年か前、ある若手の実業家が何か新しいできごとに対して「それは想定内です」と言ったことを覚えておられる方もおられるかと思います。今回の大震災では、多くの関係者が「想定外のことが起きてしまった」と言っています。このことに関して失敗学会理事長の畑村洋太郎氏が4月20日の産経新聞で「見たくないものは見えない。聞きたくないことは聞こえない。自分たちが困ることは考えないための理由をたくさん並べて結局、考えない」と言っています。別の評論家が、「何かが起きる可能性があると指摘することは起きることを期待していると人々に思われるから、多くの日本人はそのような可能性を口に出さない」というような意味のことを言っていたのを思い出します。私たちの日常の生活でも、怒っては困ることはなるべく考えないようにしたいと思ってことばの使い方にも注意します。今回のことでも、起きたら困ることはすべて想定外だとして、起きないことを前提にし、起きると想定したことだけに全力を注いで備えたのかもしれません。
しかし、どんなに注意しても想定外のことが起こるのが私たちの社会であり、人生です。わずかな知能、わずかな経験しかない私たちにすべてを想定することは不可能です。しかし、想定外のことが自分の身に降りかかったときにどのように受け止めるか、行くべき道をどんな基準で決断するか、どのような歩みをするかによって、その後の人生がまったく違ったものとなることを経験します。
すべてを支配し、すべてを益に変える愛の神、全能の神に対する信頼の中で決断することが大切であると思わされます。この思いがけないできごとの中で神を見いだすことによって得られる平安を求めて前述の石巻教会に集い始めた人々がいることがキリスト教系の新聞でも報じられました。
聖書に「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません」(Uコリント4:8)とありますが、どんなことが起きても救いの道があると知ることが大事だと思っています。たとえ想定外のことが起きてもすべてを益に変える神を信頼することが平安な生活に至る道の原点です。愛の神、全能の神、すべてを益に変える神は、試練を恵みに変えることのできる方なのです。
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