はぴねす2011年8月



真実を語らない理由
牧師 藤波勝正

最近マスコミをにぎわせていることばに、虚偽報告や隠ぺい体質があります。同時に気になるのは、自分は何も偽りを言ったことがないかのように一方的に責任を追及している姿です。虚偽報告や隠ぺい体質で最も有名なのが、戦時中の大本営発表ではないでしょうか。その大本営発表が日本を間違った方向に導いた原因であるから真実を語らなければならないとだれもが言いますが、その反省に立ったはずの多くの企業、団体、政府までもがいまだにその体質を持っていることは確かです。

今回の福島の原子力発電所の事故でも同じことが行なわれているようです。3月末に、「政府の発表からは発電所の状況はわからないが、政府が求めている避難の範囲から、事態の深刻さがある程度わかる」と言った人がいました。今になってみれば、その方の言ったことは真実でした。政府は人々に動揺と与えないためと言って、真実を語らずに事態を穏便におさめようとしていたのでしょう。

正しく報告し、すべてを明らかにしなければならないことは多くの人が知っていますが、これほど難しいことはありません。私たちが正直に報告し、すべてを明らかにすることができる唯一の理由は、その行為によって自分の属している組織に利益がもたらされると確信していることです。利益にならないと予測すれば、隠したくなるのが心情です。

子供は正直だとよく言いますが、隠す知恵が足りないだけで、自分に不利なことは隠し、有利なことだけを話す性質を持っています。大人の社会ではなおさら、不利なことを公にする困難がわかると、隠したり偽りを報告したりしたくなるものです。

今、人の偽りを攻撃している人たちも同じ性質を持っており、どこかに偽りがあります。その偽りが表ざたになっていないから平気で他の人をあげつらっているのかもしれないと想像したくなります。そのくらい、虚偽報告や隠ぺい体質はだれもが持っている性質なのです。

聖書に記されていることですが、罪を犯した人を前にして多くの人がその罪を攻撃しました。そのときイエスは、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)とおっしゃいました。自分のことを棚に上げて他人を責める性質は私たちにもあります。

すべてを明らかにして正直に生きるためには、語る対手を信頼することです。たとえ一時は混乱があっても、最終的には理解され、よい方向に行くという希望が必要です。逆に、真実を語らなかった場合には、一時は混乱が起きなかったとしても、偽りの影響は大きく、人々の心に長く傷を与えることを忘れてはなりません。

一時は苦しい経験をしても、神が必ずすべてを最善にしてくださるという信頼、そして、その神に対する真実な祈りがなければ、正しく生きることは不可能です。聖書に、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)というみことばがあります。死からよみがえり、今も生きる神であられるイエスは、失敗もまた益に変えてくださいます。



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