はぴねす2011年11月



希望はどこに
10/23、24特別集会講師 斉藤 善樹

今の日本を考えますと、失望に満ちている社会だと思います。私たちの人生も失望だらけではないでしょうか。大事なのは最後の最後で希望を持っていられるかです。クリスチャンになってもいっさいの失望から解放されるのではありません。最後の最後で希望を持っていられるかどうかが人生の分かれ目ではないでしょうか。

私たちが必要としているものは希望です。日本は大きな試練を経験しています。ボランティアに行った人たちが言うのは、一番必要なのは希望だということです。将来の希望が復興の原動力となっているのです。今どれだけつらいことがあっても、これを抜ければ光が見えるとわかれば、何とか歩いていくことができます。今の日本で一番欠けているものは、皮肉にも一番必要とされている希望です。震災前から言われていることです。

希望はどこから生まれてくるのか。希望は持とうと思って持てるものではない。希望は生まれてくるものです。カウンセリングで共に時間を過ごしていくうちに、希望が生まれるのを経験します。説得や理屈ではありません。

その希望はどこから出てくるのでしょうか。私たちが絶対に大丈夫だという希望の根拠はありません。自分に希望の根拠があるとは言えないのではないでしょうか。

希望は、私たちのうちではなく外から与えられるものではないでしょうか。そして、その与えられるものを信じるところから希望が生まれてくるのではないでしょうか。結局、信じることなしには希望はあり得ないのではないでしょうか。

もし私たちが偶然生まれてきたのなら、希望の根拠はありません。けれども、私たちがどなたかの計画によって生まれ、生きているとしたら、私たちの希望の根拠は、私たちを創られた方の手の中にあるのではないでしょうか。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:11)という聖書のことばがあります。このことばが与えられたのは、イスラエルという国が消滅し、国民が連れ去られ、田畑、町は荒廃しているという状況でした。荒れた国土で呆然としている民に必要だったのは将来の希望でしたが、希望の根拠は彼らのうちにはありません。しかし、彼らは希望を持つことができた。希望の根拠を神様の約束に置いたからです。

聖書のことばは、昔のことばではなく、私に与えられていることばです。平安を、将来を、希望を与える計画を一人一人に神様が持っておられる。私たちの中には希望はありませんが、神様の手の中に、神様のご計画にあります。やみの中にあっても、私たちは希望を信じることができます。希望を手にするためには、信じることです。保障でも理屈でもなく、信じることです。信じるところから希望が生まれてきます。信じることなしに希望はあり得ません。

私たちの信じる根拠は、神様の手のうちに、神様のご計画にあるのです。私たちには信じるチャンスが与えられています。

(10月23日の説教より)



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